法源寺
枯れた槐樹(えんじゅ)をつつむように伸びる古白皮松
花の寺とも言われる法源寺。ライラックは特に有名で、花海棠、木蓮など春は花の香りに包まれるらしい。
ちょっとここは空気がちがうなぁ・・・こんな穏やかなところはめずらしいかも。
そんな印象で、帰ってから法源寺を検索してみたら、なんかすごいところにリンクしてしまって、
とりあえず自分用の覚書として断片を書き留めておく。
はじめさらっと読んでてよくわからなかったんだけど、詳しく見ていくうちに現代の神話のような、中国版忠臣蔵のような話に絶句してしまったのだ・・・
法源寺。唐代645年建立、古くは憫忠寺。北京市内に現存する最古の古刹。
1400年以上の歴史をみてきたこの寺、簡単にいうと哀悼を捧げる、菩提を弔うための寺とでもいうのか・・
ここ北京を舞台に唐代からの戦いの歴史、血の歴史を目の当たりにしてきたような印象をうける。
清代では処刑場だった菜市口が近い。
歴史に新しいのは1898年、戊戌の変法。譚嗣同(1865~1898年・清朝末の改革主義者、哲学者。)ら”戊戌の六君子”は、戊戌変法(クーデター)に失敗し、菜市口で処刑され、この法源寺で菩提を弔われている。
台湾の作家、李敖に小説「北京法源寺」がある。(光緒帝はこの失敗によって西太后に幽閉されることになる。)
そこまではよかったが、法源寺にまつわるこんな記事を発見してしまった。
墓守17代目の佘幼芝という老婦人。
『袁崇煥の墓守385年』17代にわったて先祖代々”袁崇煥”のお墓を守り続けているという実話。2015年の記事だから実際には今現在もつづいている。
墓を守っているのは”袁崇煥”の子孫ではない。なんと”袁崇煥”の部下にあたる佘家の子孫で、17代目は佘幼芝という老婦人、今年78歳。
ここで”袁崇煥”を検索。
袁崇煥・えんすうかん(1584~1630年)明末の武将。広東省東莞の客家出身で、その優れた軍略で遼東・遼西(現在の遼寧省南部)で後金の軍隊にたびたび勝利し、三国時代の名軍師諸葛孔明になぞらえてたたえられた。兵に対しても思いやり深い人物だったという。身内に疑われて(清による策略)明最後の皇帝である崇禎帝により処刑された。
1630年、謀叛の疑いありとして凌遅刑。このことは、崇禎帝の代での明滅亡を決定的にした。(故宮の裏山の景山に追い詰められた崇禎帝はここで首を吊る。)
ちなみに凌遅刑とは、ここでは書けないほどの極刑。残酷を極める。
1630年9月22日西四で処刑される。
袁崇煥の冤罪を知る部下の佘某が、秘かに亡き骸から頭部を持ち去る。袁崇煥の霊は法源寺で弔われたらしい。その後、佘某は身分を隠し、そして死ぬ間際に子孫に三ヶ条の家訓を残す。
一:自分が死んだら袁大将軍の傍らに埋めること。永遠に大将軍に御供するのだ。
二:袁大将軍には子孫がいない、よって佘家は子々孫々大将軍の墓を守らなければならない。故郷の広東省に帰ってはいけない。
三:佘家の子孫は永遠に官職に着いてはいけない。そして必ず勉学に励むこと。学問をとおし歴史を学び、礼儀、忠孝を解すること。
袁崇煥の死の155年後、清代乾隆帝の時代に明代の史実再検証によって袁崇煥の冤罪が公となり名誉は回復する。
佘家の墓守も公然となり、世間から佘義士(忠義の士)と呼ばれる。
現代になって、袁崇煥の故郷である広東省東莞では記念館の建設にともない、佘家に記念館の館長を依頼していたが、老夫婦は家訓に従い応じなかった。しかし佘幼芝の息子は両親に黙って依頼を引き受けてしまった。18代目の墓守後継人である焦平は、2003年6月24日に吉林省で事故死している(28歳)。
拝金主義と腐敗、爆買い、さらにはpm2.5 と、いい話のない中国だけれど、
歴史小説や演義ものになるような、こんな話が実はまだまだあるんだろうな・・・